鷹之台カンツリー倶楽部の歴史
「鷹之台のコースを一言で表現するならば、それは“良家の大廣間”である」と喝破したのは、初代キャプテンの横田正成氏である。今日、クラブハウスからコースを望見するとき、誰もが等しく感ずるのは、正にこの言葉通り美しくもおおらかな景観であろう 。
その鷹之台は、歴史的にみると戦前のコース(鷹之台ゴルフ倶楽部)の時代と戦後のコース(鷹之台カンツリー倶楽部)の時代とに分けることが出来る。
[草創期の鷹之台(鷹之台ゴルフ倶楽部)]
鷹之台カンツリー倶楽部の前身鷹之台ゴルフ倶楽部は、日商岩井の前身であった鈴木商店の清木一男氏、太陽曹達の後藤半七郎氏、益子四朗氏の3氏が、「日本のゴルフというものはアメリカから入ってきたゴルフで、本場英国式のゴルフ場がないのでぜひ英国式のゴルフ場をつくりたい」という計画を、東京麹町の大地主、伴田六郎氏に持ち込んだのがそもそもの始まりであった。
大和スポーツ協会(伴田六郎氏が代表)によって鷹之台ゴルフ倶楽部が創設されたのは昭和5年(1930年)のことである。コースの設計は、発起人の一人である清木一男氏が担当した。
昭和7年(1932年)3月に18ホール、全長6,720ヤード、パー72の鷹之台ゴルフ倶楽部が完成した。全体の印象、レイアウトは、あくまで自然の素朴さを生かした英国インランドコース(Inland Course:内陸コース)の趣を備えたものであった。また、全長6,720ヤードという距離は、当時の日本では最も長いコースであった。
清木一男氏は発起人の一人であり、大正14年鈴木商店の社員として長らくヨーロッパに派遣されていたが、仕事のかたわらヨーロッパ各地のゴルフコースを踏査してコース設計に関する研究を重ね、特に英国風のゴルフリンクスに精通していた。
昭和7年(1932年)6月26日、午前10時より開場式典を挙行、来賓の朝香宮鳩彦殿下による1番ホールの始球式で鷹之台ゴルフ倶楽部の歴史はスタートした。列席者の顔ぶれは、鳩山一郎氏、芳沢謙吉氏、川村竹治氏をはじめ、いずれも日本のゴルフ界草創期に名を残しているパイオニアばかりだった。
コースは18ホールそれぞれに変化に富み、攻略するにあたっては戦略を必要とした。
当時のゴルファーは鷹之台ゴルフ倶楽部について、「コースは平坦だが距離が長く、大きな樹木に囲まれていながら広いので圧迫感がなく、美しいフェアウェーのゴルフ場」、「食事が安くて、格式ばらない気楽な雰囲気」などと語っていた。
鷹之台ゴルフ倶楽部は、昭和9年にさらなる発展をめざしてコースの改造を行った。当時のゴルフ界の第一人者として名高かった赤星六郎氏にコース改造設計を依頼。昭和10年4月に完成した新コースは、全長6,765ヤード、パー74という本格的なチャンピオンコースとなった。日本ゴルフ協会から正規のチャンピオンコースとして認定され、関東ゴルフ連盟にも加盟し、戦前の日本のゴルフ史に残るビッグイベントや競技会を相次いで開催した。
昭和11年6月の第6回関東プロゴルフ選手権(優勝:浅見緑蔵氏)、翌年の秋には第7回全日本プロゴルフ選手権(優勝:上堅岩一氏)や東西プロ対抗競技などの開催を引き受けた。
日本のゴルフ界にも戦争という暗い陰が忍び寄っていた。
昭和15年(1940年)以降は社会環境も極度に悪化したため、昭和17年(1942年)9月には、ついに日本ゴルフ協会、関東ゴルフ連盟は解散し、大日本体育会打球部会という組織がつくられた。翌年に発表されたゴルフ用語の邦語化(日本語への置き換え)は当時の世情を反映したものであり、ゴルフは“打球”、バンカーは“砂窪”などの言葉となった。戦時体制のもとで、とてもゴルフどころではない時勢だったが、それでも鷹之台ゴルフ倶楽部はゴルフを愛好する有志に支えられ、昭和20年3月まで細々と運営されていた。むろん時局は悪化する一方だったため、鷹之台ゴルフ倶楽部で試合らしい試合が行われたのは昭和18年(1943年)、倶楽部選手権、関東アマチュア選手権が最後となった。
コース自体も、一部は農耕地に転用されてサツマイモ畑に変わり、さらに戦局が悪化すると陸軍の鉄道連隊がクラブハウスを徴用して駐屯するようになった。
そして昭和20年(1945年)3月10日、あの東京大空襲によって交通機関が壊滅状態になり、ほとんど途絶するに及んで、ついに鷹之台ゴルフ倶楽部も閉鎖せざるを得なくなった。開場以来わずか13年で、自然消滅という形の幕引きが行われたのである。
[再興期の鷹之台(鷹之台カンツリー倶楽部)]
第二次世界大戦に敗れた我が国は、経済的にも社会的にも極度の混乱状態にあったが、ゴルフ界復活の動きは意外に早く訪れた。
きっかけをつくったのはアメリカの進駐軍である。彼らは、敗戦により潰滅状態にあった日本各地のゴルフ場を次々に接収し、駐留アメリカ軍人とその家族のための レクリエーション施設としてゴルフ場の復旧にとりかかったのである。昭和20年(1945年)10月には早くも霞ケ関が、続いて川奈富士コースが米軍の手で再開された。
また、戦争のため活動を中止していた日本ゴルフ協会(JGA)も、昭和24年(1949年)11月に創立総会を開いて戦後のスタートを切った。その前後から、那須、鳴尾、古賀、廣野、京都、旧軽井沢など戦前からのコースが再開を果たした。
この時期を戦後の日本ゴルフ界の復興期ととらえるならば、わが鷹之台はどうであったかというと、再開の話は特になく、月日はいたずらに過ぎていったのである。それは一つには、戦前の鷹之台を名実共にリードしてきた実力者たちが相次いで鬼籍に入るなど有為の人材を失ったことが大きい。
鷹之台再開の動きが本格的にスタートしたのは昭和27年(1952年)夏のことであった。
同年8月には、鷹之台ゴルフ倶楽部のメンバーだった有志が相集い、協議の結果、再建のための発起人を選出し、設立実行委員会を発足させた。
こうして鷹之台再建の灯がともされたわけだが、ゴルフコースを再開するためには大きな障壁を乗り越えなければならなかった。それは、ゴルフ場用地の大部分が借地であること、そして山林原野を一部含む現況が農地であったことだ。
食糧難のこの時代、農地をつぶしてゴルフ場に転用し、しかもごく一部の階級の人々に開放使用されることの是非が問われることとなったのである。ゴルフ場の再開については、国会の行政監察委員会でも取り上げられ、設立実行委員は国会の場でも喚問を受けた。
そこで倶楽部側は、とりあえず用地のうち、既に農地化されていた26町歩を設立実行委員会の増田正二氏個人名義の「千葉牧場」として許可申請を行ったのである。そして、しかるのちに倶楽部は、この土地を増田氏から賃借し、ゴルフ場の建設を進めるというものであった。「千葉牧場」と名付けられた鷹之台カンツリー倶楽部が、こうして誕生した。昭和29年5月のことである。
当地に戦前からあったゴルフ場ではあるが、こうして全く新しい組織として再建されたため、社団法人鷹之台カンツリー倶楽部は、開場を祝った昭和29年(1954年)を創設の年としている。
「千葉牧場」という名前で許可された鷹之台カンツリー倶楽部には、牧草の一種であるケンタッキー・ブリューグラスの種子をまいて生育状況を研究すること、コース内の農地部分には木柵を設けること、さらに適当な家畜を飼育することなどが義務づけられた。
そこで実行委員会は、造成工事のかたわら緬羊80頭を購入してフェアウェーで放し飼いにした。ゴルフコースとしては見慣れない風景ではあったが、牧場としての体裁を整えなければコースを再開できなかったという事情を考えるとやむを得ない措置だったと言える。
しかし用地問題は、これで一挙に解決したというわけではなかった。開場までに次から次へと新たな問題が浮上してきて、その度に関係地権者や行政機関との交渉が行われた。当初は、昭和28年(1953年)11月に開場を予定していたものが、翌年2月に延期、さらに同年5月へと延びて、ようやく昭和29年(1954年)5月23日に正式開場の運びとなった。
昭和28年(1953年)5月の創立総会では、初代理事長に古荘四郎彦氏(千葉銀行頭取)を選出し、初代キャプテンには横田正成氏(日本鋳鋼会専務)、初代事務長(支配人)には小平乙蔵氏を指名した。
コースの造成工事やハウスの建設はそれ以前から進められていた。実行委員会は昭和27年(1952年)10月、コース設計者には斯界の第一人者といわれた井上誠一氏、ハウス設計者には渡辺・西郷建築設計事務所、コース造成工事請負業者として旭建設株式会社を指名した。
昭和29年(1954年)5月23日の本格的開場を前に、2月10日にはインの9ホールで仮オープンし、各分科会委員長も選出された。
開場祝賀会は5月23日に行われ、この日の行事は朝香鳩彦氏の始球式に始まり、開場祝賀コンペが行われた。
戦後再開した新しい鷹之台のコースは、戦前のコースと比較するとまったく趣を変えたといってもよいものだった。牧場としてスタートし、緬羊と共存するユニークなゴルフコースであったが、全体が広々とした景観に恵まれ、コース自体にいたずらに小細工が施されていない鷹之台カンツリー倶楽部は、後の公式競技に出場したプロの選手から 賞賛されるチャンピオンコースとして生まれ変わったのである。
昭和29年(1954年)5月の開場から鷹之台の充実ぶりは早くもプロ・アマを問わずゴルフ界の注目するところとなり。昭和30年代に入ると日本ゴルフ界を代表するビッグイベントが次々に開催された。
その口火を切ったのは、昭和30年(1955年)6月に開催された第1回関東女子ゴルフ選手権(優勝:伊沢鈴子女史)である。また10月には関東オープンゴルフ選手権(優勝:林由郎氏、ベストアマチュア:三好徳行氏(鷹之台会員))、読売プロゴルフ選手権と立て続けに行われた。
昭和32年(1957年)9月には、第3回全日本女子ゴルフ選手権も開催され在日米軍より3名のレディースを含む40名の選手が54ホールメダルプレー(ストロークプレー)を繰り広げ、関東の小坂旦子女史、関西の田中ローズ女史によるプレーオフが行われ、小坂女史が接戦を制した。当時は、まだ女子プロの制度がなかったので、この試合は名実共に日本の女王を決める唯一の競技であった。
さらに、昭和33年(1958年)10月には、第23回日本オープンゴルフ選手権が行われ、中村寅吉プロが優勝した。その3年後には、第26回日本オープンゴルフ選手権を開催したが、この試合は「薄暮の日本オープン」として日本ゴルフ協会の歴史にも刻まれている。11月8日から3日間にわたって行われた試合は白熱し、短い秋の陽が西の空に沈んだコースで、同スコア5人(細石憲二氏、小野光一氏、謝永郁氏、勝俣功氏、陳清波氏)によるプレーオフが行われた。エキストラホールは、1・7・8番で、コースに自動車を集めてヘッドライトで照らし、グリーン上では係りの照らす懐中電灯を頼りにパッティングをするというもので、結局細石氏が他を制してウィナーとなった。
この他、昭和30年(1955年)に第3回関東学生ゴルフ選手権の開催を引き受け、昭和39年(1963年)の第12回大会以降は、現在まで当倶楽部が指定開催コースとなっている。
また、昭和36年(1961年)には、2名のVIPが相次いで訪れた。一人は、ベルギー前国王レオポルド3世陛下である。そして翌月にはサム・スニード 氏を迎えた。
その後しばらく公式競技から遠ざかっていたが、平成7年(1995年)8月、久し振りに関東オープン(優勝:羽川 豊氏)の開催コースとなった。
この時出場した安田春雄氏は鷹之台を評してこう語っている。 「ただ飛距離だけを出せばいいだけと思われるコースがあり、若い人達の間では、それがゴルフコースだとの概念が定着してしまっています。そういう人達には“打球場”ではない真のコースがどういうものか、この鷹之台が教えてくれた感じがします。」
それから5年後の平成12年(2000年)10月には、第65回日本オープンゴルフ選手権競技の会場となった。戦後3回目のジャパンオープンである(優勝:尾崎直道氏)。
特に、この大会で特筆すべきは、スコアラー、ホールマーシャル、キャリングボード、ギャラリー整理など運営全般にわたって4日間延べ1,200名に及ぶ「大会運営ボランティア 」の活躍があったことである。即ち、会員とその家族はもとより、近隣自治会、婦人会、青年部そしてフリー参加の人達が早朝から大会のために協力を惜しまなかった。
その意味で選手が表の主役ならば、ボランティアは大会運営の蔭の主役(功労者)といってよい。
日本オープンに関連して特筆すべきは、国内初の試みとして、企業向け「迎賓テント」(USオープンではホスピタリティーテントという)を企画し準備に当ってきたところ、不況下であるにも拘わらず多数の企業から参加申込みがあり予想外の高評価を得た。この画期的な試みは、今後の大会運営に資するところ大であると確信している。
ゴルフコースも長い歳月の間には、次第の変容を遂げていく。芝の老化や天候不順、さらに用具や技術の進歩など、いろいろな条件と共にコースの内容も変わっていくのは当然であろう。
鷹之台も今日まで数限りなく改良・造成工事を実施してきたところであるが、中でも特筆すべきは、昭和50年(1975年)全国で初めて全面 「サンドグリーン(カリフォルニア方式)」を採用したことである。この時の先駆的試みが成功して、その後の我国ゴルフ界のグリーン工法は、この方法が主流となったのである。
平成9年(1997年)に入り、それまで20年間余り酷使に耐えてきたベントグリーンを新たにUSGA方式で全面改修し、併せて 平成12年(2000年)日本オープン開催に照準を合わせてコースの要所要所を改造するなど、果敢に取り組んできた。特にベントグリーンは開場当時の設計理念に立ち返るとの方針のもと、従来よりも数段難度が高いものとなった。
住宅団地や市街地に隣接した鷹之台のような言わば「都市型ゴルフ場」では、地域の住民や行政との友好善隣関係を維持発展させることは重要な課題である。
その意味で、「ゴルフフェスタCHIBA」、「八千代市民ゴルフ大会」、「千葉市広域避難場所」など、公的要請には進んでコースを開放し時代の要請に応えて積極的に協力してきた。
また、コース内の要所要所には、小鳥や野生動物の水飲場、巣箱、餌台などを設け、「環境に優しいゴルフ場」を目指してきたのである。
平成14年(2002年)懸案事項であった4番ホールの改良工事が、隣接する県立柏井高等学校との土地交換及び一部土地取得により実現した。コウライグリーンとベントグリーンの位置を入れ替え、旧コウライグリーン手前の谷を新ベントグリーン前まで伸ばし、その前に深いバンカーを配置し、距離も25ヤード延長され、ヤーデージが7,102ヤードとなり、難易度は一気にアップした。
平成16年(2004年)鷹之台カンツリー倶楽部は、昭和29年(1954年)復活開場後50年を迎え、50周年記念式典・競技会を開催。併せて50年史を発刊し、新たな歴史を刻むこととなった。平成14年に完成した4番ホールの改修も記念事業の一つと位置づけられている。その他クラブハウスの改修工事も行われ、屋根、食堂、空調、風呂、トイレなどの改修と共に、史料室が設置された。
50th Friendly Takanodaiと銘打った祝賀会は5日間に亘って行われ、総勢407名が参加し好評のうちに幕が下ろされた。
平成17年(2005年)10月26日小野ゴルフ倶楽部(兵庫県)及び田辺カントリー倶楽部(京都府)両倶楽部と会員相互の交流を図るため、提携倶楽部調印式が行われ、提携覚書を締結した。
相互の会員が一定の条件のもとに倶楽部の施設、設備の利用・プレーについて優遇措置を受けることを取決め、東西のゴルフ交流の発展に寄与することを目的とした試みである。
平成23年(2011年)当倶楽部戦後4回目となる、第76回日本オープンゴルフ選手権競技を開催し、ギャラリ-数は35,282人を数えた。 長く伸びたラフと狭いフェアウェー、見事に整備されたグリーンは、国内最高の戦い「日本オープン」に相応しい環境を鷹之台が提供する結果となった。
芝生の中に目に眩しく点在する白い迎賓テント、スポンサーテントは、2000年第65回日本オープンでの経験が十二分に活かされ、関係者から高い評価を得たのは言うまでもない。
2011年の日本オープン成功の鍵は、選手の熱闘、観客のマナー、コースの仕上がり、裏方に徹する関係者の努力が相乗効果を揚げて成し遂げられたと言っても過言ではない。
また、最終日最終組に2名のハウスキャディーが帯同したことは、日本オープン史上初めての事でもあり、鷹之台のキャディーの質の高さを示すこととなった。
4日間の戦いを勝ち抜いたのは、久保谷健一選手とのプレーオフを制したベ・サンムン選手であった。この大会はまた、東日本大震災で被災した東北地方を勇気づける「震災復興支援大会(グリーン・ティー・チャリティ)」でもあった。
平成25年(2013年)4月、公益法人制度改革に伴い社団法人から一般社団法人へ移行。
平成27年(2015年)40年ぶりにクラブハウスの全面改修工事を実施(平成26年5月着手~27年3月完了)し、平成27年3月計画通り竣工した。
今回の改修工事では、①浴室など女子施設の増設、②都市ガスによる給湯設備の更新、③上下水道配管の更新、④食堂・厨房施設の改修・更新、⑤従業員施設の改修などを実施し、これらの改修により、今後適宜メンテナンスを実施することにより、30年間存続利用が可能になった。
今回の改修工事では、平成27年1月~2月にかけてクローズ期間を設け、会員・ゲストの理解の下、急ピッチで工事を進められ、女性来場者にはゆったりとしたくつろぎの空間を提供できることとなったと共に、会員にとっては、引き続き充実した倶楽部ライフを楽しんでもらえる施設となった。